HISTORY 競技
日本選手のマスターズ初出場
1936(昭和11)年、初参戦したのは
戸田藤一郎と陳清水
毎年4月、米国ジョージア州オーガスタのオーガスタナショナルゴルフクラブで開催されるマスターズトーナメント(以下マスターズと表記)に日本の選手が初めて参戦したのは1936(昭和11)年のことだった。オーガスタに足を踏み入れたのは前年12月から米国遠征を行っていた戸田藤一郎と台湾出身で日本を拠点に活動していた陳清水(1973年に日本に帰化)である。

米国を転戦中の陳清水(左)と戸田藤一郎(日本プロゴルフ協会30年史より)
オーガスタナショナルインビテーショントーナメント
の名で始まったマスターズトーナメント
1934(昭和9)年に始まったマスターズは創設時、オーガスタナショナルインビテーショントーナメントという大会名だった。選ばれた名手が集うという意味で大会名をマスターズにしようという意見も強かったが創設者の1人であるボビー・ジョーンズが「おこがましい」と反対して、オーガスタナショナルインビテーショントーナメントに落ち着いた経緯があった。ただ、当初からマスターズの名の方が浸透し、1939(昭和14)年からはこちらが正式な大会名となっている。
日本ではどうかというと、ゴルフ誌『GOLF』の1936年5月号では「オーガスタ國際招待五千弗ゴルフ・トーナメント」、同6月号では「オーガスタ・オープン」、『NIPPON GOLFDOM』1936年5月号では「オーガスタ國際招待五千ドル競技」と表記されており、まだマスターズの名は見られない。
『GOLF』1936年6月号に陳の手記が掲載されているので一部を抜粋する。
「このオーガスタ・オープンは一般のプレーヤーには参加を許さず、今迄の大きい試合で予選に入ったプロだけに許して居りますので、その数も僅か五十名に過ぎず、一流プレーヤーばかりですから丁度全米オープンに参加すると同じような感じが致します。(中略)私共は特別の招待を受けて参加することが出来ました。」(一部現代語訳)
マスターズからの招待状は前年も日本に届いていた。宮本留吉、浅見緑蔵、中村兼吉の3人を招待するというものだった。しかし、すでに決まっていたこの3人を含む第二次米国遠征の日程を動かすことが出来ず、辞退している。
最終順位は陳が20位、戸田29位
陳と戸田は3月下旬にノースカロライナ州パインハーストでの試合を終え、オーガスタに入った。当時のコースは6700ヤード、パー72という設定だった。
開幕は4月2日である。同日付の『THE NEW YORK TIMES』には練習ラウンドの様子が掲載されており、「below 70」で回った選手が列記されている。その中には戸田の名前もあった。
4月2日は雨。第1ラウンドは翌日に順延された。仕切り直しの第1ラウンドは冷え込んだようで、スコアは全般的に低調。首位は2アンダーパー、70のハリー・クーパーでアンダーパーは1人だけだった。
3月にフロリダ州の試合で優勝争いを演じるなど好調だった戸田は81と苦戦した。一方で陳は76で12位につける。陳は『NIPPON GOLFDOM』(1936年6月号)で第1ラウンドのプレーを「寒い中で76を出したのは自分としては上出来でした。」と振り返っている。
陳は4月4日の第2ラウンドを74にまとめ、通算6オーバーパー、150の16位で前半の36ホールを終えた。戸田も74で通算11オーバーパーとなった。
後半の36ホールが予定されていた4月5日はまたも雨で順延となった。翌6日、戸田は第3、最終ラウンドともに75で通算17オーバーパー、305の29位で初めてのマスターズを終えた。
陳は第3ラウンドで奮闘する。アウト37のあとインで34を出して1アンダーパーの71をマーク。12位まで浮上した。
最終ラウンドについては『NIPPON GOLFDOM』1936年6月号に掲載されている陳の手記から抜粋する。
「スタートが午後の三時なので夕立に降られ、グリーンの上でパターを使へない位の雨で39、40=79を出して300となり二十位になりました。」
最終ラウンドは不本意なゴルフだっただろうが、この舞台で20位は上々の成績。ちなみに、メジャー3勝のトミー・アーマーや第1回、第2回マスターズ共に2位のクレイグ・ウッド(1941年にマスターズと全米オープン優勝)、前年の全米オープン覇者であるサム・パークスジュニアらが同順位だった。
松山英樹が日本選手初のマスターズチャンピオンに輝くのがこの85年後。長い道のりの第一歩はこのようにして踏み出された。
文/宮井善一
参考文献
『GOLF』(目黒書店)1936年5、6月号
『NIPPON GOLFDOM』(日本ゴルフドム社)1936年5、6月号
『THE NEW YORK TIMES』1936年4月2~7日付
INDEX

