PERSON プロゴルファー
浅見緑蔵
プレーヤー、理事長としてゴルフ界をけん引

1977年、日本プロシニアに出場した浅見緑蔵
浅見緑蔵
Rokuzo Asami
1908(明治41)~1984(昭和59)
19歳で日本オープンゴルフ選手権を制し、20歳で日本プロゴルフ選手権に勝った。長い歴史とタイトルの重みを有する両大会で最年少優勝記録を保持する名手。それが浅見緑蔵である。
1908(明治41)年8月20日、浅見は東京・駒沢村(現在の東京都世田谷区)の農家で生まれた。その後、生家近くにできた東京ゴルフ倶楽部駒沢コースが浅見の運命を決める。同倶楽部でキャディマスターのような仕事をしていた兄の誘いで、小学校3年からキャディのアルバイトを始め、やがて本格的にゴルフに取り組むようになったのだ。
1923(大正12)年、東京ゴルフ倶楽部の会員が中心となってつくった新たなコース、程ヶ谷カントリー倶楽部(横浜市)が完成した。浅見はここにキャディマスターとして移籍する。15歳になる年だった。
今も破られぬ、浅見緑蔵の
日本オープン、日本プロ最年少優勝記録
この3年後、1926(大正15)年に浅見は程ヶ谷の所属プロとして認められた。初めてのトーナメント出場は1927(昭和2)年5月、程ヶ谷で開催された第1回の日本オープンゴルフ選手権だった。当時18歳。優勝したアマチュアの赤星六郎には10打の大差をつけられたが2位に入った。つまり、プロでは宮本留吉ら先輩を抑えて最上位だったのである。
翌1928(昭和3)年、浅見の才能が開花する。まず、5月の日本オープンゴルフ選手権で安田幸吉に7打差をつけて圧勝。19歳の若さで日本オープンチャンピオンに輝いたのだ。11月には日本プロゴルフ選手権も制覇。この時は20歳になっていた。
年齢を日数まで記すと、日本オープンゴルフ選手権は19歳281日、日本プロゴルフ選手権は20歳102日での優勝である。これは100年近い年月を経た今なお、両大会の最年少優勝記録として輝き続けている。

1931年、日本オープンゴルフ選手権を制して
史上初の年間3冠を達成した浅見緑蔵
(GOLFDOM1931年12月号)
1931(昭和6)年、
史上初の同一年3冠を達成
浅見は当時としては長身(174cm)で、同時期に活躍した宮本や安田より頭ひとつほど大きかった。このスケールの大きさも相まって、前途は洋々かと思われた。だが、ここから2年間、浅見の姿はゴルフの舞台から消えた。軍隊に召集されたのである。
1931(昭和6)年、復帰した浅見は鬼神のごとき快進撃をみせる。8月、この年に創設された関東プロゴルフ選手権決勝で安田を11アンド10という記録的な大差で下して初代王者に輝く。10月の日本プロゴルフ選手権では決勝で陳清水を6アンド5で下し、中2日で行われた日本オープンゴルフ選手権では2位の宮本に4打差をつける快勝。同一年3冠という史上初の快挙を成し遂げたのだ。2年のブランクをはさみ、実に出場5大会連続優勝という離れ業でもあった。練習ができない軍隊生活中も左手を鍛え続け、除隊後は1日1000回の素振りで手は血豆だらけだったという。文字通り、血のにじむような努力でつかんだ栄冠だった。
同年末には宮本、安田とともに日本人プロゴルファー初の米国本土遠征を敢行。1935(昭和10)年の米国遠征メンバーにも入った。
だが、3冠以降の優勝は1936(昭和11)年の関東プロゴルフ選手権のみ。度重なる軍隊招集や兵役中に建設現場で大けがを負うなどさまざまな逆風が浅見の選手生命を急速に削ってしまったのだ。

浅見緑蔵、69歳のスイング
親子2代でプロゴルフ協会代表を務める
戦後、浅見は選手とは違う立場でプロゴルフ界の発展に寄与する。1957(昭和32)年の日本プロゴルフ協会設立時に副理事長に就任。1963(昭和38)年には第2代理事長(現在の会長職)となり、プロゴルフ界をけん引した。亡くなる前年の1983(昭和58)年には長男の勝一が日本プロゴルフ協会会長に就任。親子2代でリーダーの重責を担った。
文/宮井善一
浅見緑蔵 主な成績
日本オープンゴルフ選手権 2勝 1928、31年
日本プロゴルフ選手権 2勝 1928、31年
関東プロゴルフ選手権 2勝 1931、36年
参考文献
『GOLF HISTORY of JAPAN Vol.1 Vol.2』(日本プロゴルフ殿堂)
『日本プロゴルフ協会30年史』(日本プロゴルフ協会)
『起伏の男道 日本プロゴルフ史・浅見緑蔵の一生』(廣済堂出版)
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